「砂漠のフェスティヴァル2005に行ってみると」

以下の文は、ミュージック・マガジン4月号(2005)に掲載するために書いたものなんですが、 なんと、依頼されていた文字数を間違えまして、倍の分量を書いてしまったものです。

ミュージック・マガジンには、これを半分に凝縮したものが掲載されたんですけど、 多くの部分をそぎ落としてしまいました。 で、このもとの文を捨ててしまうのも勿体なくて、ここで供養を兼ねて掲載したいと思います。

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1月7〜8日、マリ東北部ティンブクトゥ県(「トゥンブクトゥ」は仏語訛で、地元ではこう呼ぶ)エッサカネで開催された「砂漠のフェスティヴァル」(以下砂漠フェス)に行ってきました。
本誌(Music Magazine誌)昨年5月号でも特集され、03年の模様がCD/DVD化される等、大きな話題になったこの音楽祭は今年で5回目。
公式サイトを見ると、あのサリフ・ケイタや、「砂漠のブルース」ブームの主役・ティナリウェン等も出演予定とか。
西アフリカで生演奏を聴くことを夢見ていた私は、地元で唄うサリフの晴れ姿や、同胞楽団・ティナリウェンに熱狂するトゥアレグの人々を見たくって、仕事と財布をやりくりし、サハラへ乗り込みました。

会場は文字通り砂漠のど真ん中で、何から何まで砂、砂、砂。
仮設ステージがポツンと立っていて、サブステージ等は無し。
参加者は4〜5,000人てところで、フジ・ロックのような巨大音楽祭ではありません。
一日の流れは、昼過ぎからラクダ・レースやトゥアレグ伝統の歌と踊りがあり、夕刻〜深夜がコンサート。
さて問題は、このコンサートでした。

結論から言うと、プログラムはズタズタで運営はメチャクチャ。
サリフやティナリウェン他、出演予定と発表されていたアリ・ファルカ・トゥーレウーム・サンガレロジョ等、多くのメイン級はついに現れず、出演したのは20組足らずでした。
砂漠に来てお金を払ってまで見る価値あるミュージシャンはごく少数で、「砂漠の〜」CD/DVDの熱気とはほど遠いものです。
3日間通しチケットは130ユーロ(マリ人平均年収の約半分)は、どう考えても高すぎ。
これなら宝塚ブルーグラス・フェスのほうがマシやん。
コピーで少数出回ったプログラムも、予告なしの変更だらけで全く役に立たず。
開演が数時間遅れる、出演者が数十分も現れない、なんて極々普通のこと。
全体を掌握しているスタッフも皆無で、ステージ裏は大混乱。
このような事態にも、主催者側からの説明は一切無し。
それでも地元客は暴動を起こすこともなく、祭典を楽しんでるようでしたが、遠国から大枚叩いて参加した外国人は不満を口にし、血眼で主催者を捜す人もいました。
会場のマリ人に訊くと、
 「サリフアリ・ファルカはマリにいて、出演できるはず」
 「ティナリウェンもマリに帰って来ている」
 「アリ・ファルカは病気を理由に来ない」
 「主催者はもうここにはおらず、砂漠に行ってしまった」
 「昨年のギャラ支払いで、トラブルがあった」等々。
サリフがバマコに、アリ・ファルカが彼の地元ニアフンケにいたというのは事実で、主催者が早々に会場から姿を消したのも確からしいのですが、その他の情報は未確認。
ついに真相は不明のままでした。

特に、ティナリウェンロジョ(仏国無国籍系楽団で、ティナリウェン大ブレイクの仕掛人)の不在には、大きな違和感を覚えました。
公式サイトによると、砂漠フェスの主催者は、ティナリウェンロジョが設立に深く関わったEFES(ティナリウェンの邦盤「アマサクル」の篠原裕治さんによるライナーに詳しい)というトゥアレグ非政府組織で、他のトゥアレグ組織との共催とのこと。
砂漠フェスは元々トゥアレグ族の地域的な情報交換・政治的集会の場であったものを、
EFESと既にトゥアレグの英雄だったティナリウェンが、トゥアレグ文化情報発信の場とすべく、エンターテイメントを前面に押し出した民族文化祭へと発展させたものです。
結果、砂漠フェスは成功し、ティナリウェンの名声とともにトゥアレグ族の認知度も一段と高まりました。
いわば、EFESとティナリウェンは一体であるはずなのに、EFESが公式に参加を発表したティナリウェン達が現れないのは、奇妙で不自然です。

「砂漠フェス」のような形でトゥアレグの存在を誇示し、世界の耳目を集めることは、
ただでさえ貧しいマリ(GDP約105億ドルは世界128位:04年)でも最貧とされる彼らの地位向上を訴えるのに重要かつ絶好の機会です。
白人種ベルベル系が多数を占めるトゥアレグ族は、ラクダによる塩などの交易や遊牧を生業としていましたが、国境線によるサハラ分断や自動車輸送の普及、砂漠化による遊牧地減少等が原因で、伝統的な砂漠の生活は急速に廃れました。
現在では多くの人々がサハラを離れ、サヘル(サハラ南縁の乾燥草原地帯)での牧畜定住生活に「新規参入」したり、都市へ出て賃金労働者となってますが、教育を受ける機会に乏しかった彼らには、このような「新しい生活」は決して容易ではありません。
かつて「孤高の砂漠の民」であったトゥアレグは、貧困のうちに他民族の中での社会生活を強いられてるわけです。
多民族国家マリでは、「国民国家の創設」を目指した民族融和意識が高く、他民族がトゥアレグをブラザーと呼び、トゥアレグ独特のターバンや銀製ブレスレットを身に付けて彼らへの親しみを示します。
しかし、潜在的なトゥアレグに対する差別や偏見が払拭されてるわけではありません。
マリ社会では、バマコ周辺に住むバンバラ・マリンケ等のマンデ系民族や、ガオを中心とした東部に住むソンガイ族が有力で、政治経済的実権は彼らが握っています。
歴史的にも、マリンケ・ソンガイはかつてニジェール川を支配した歴代帝国の支配層で、トゥアレグは被征服民でした。
残存する差別に貧困が拍車をかけ、それがさらなる偏見を生む悪循環。
隣国ニジェールではここ数年、トゥアレグによる警察や観光客に対する襲撃事件や、定住農民に対する略奪で多くの死傷者が出ています。
こういした現状から、トゥアレグ族にとって世界的注目を集められる上、巨額の収益が転がり込む砂漠フェスの果たす役割は大きく、今回の混乱が単なるイヴェントの失敗では済まない社会的・経済的損失をもたらしかねません。

砂漠フェスでの混乱の真相を、主催のEFESと、公式サイト上で協賛団体の一つとして名を連ねるトゥリバン・ユニオン(ティナリウェンロジョ、「砂漠の〜」のCD等の制作事務所:以下TU)に問合わせました。
EFESからは回答なし。
TUの回答によると、砂漠フェス当時、ロジョは仏国で新譜の録音中、ティナリウェンは地元キダールで休暇中で、近郊エソークで元日から開催の別のトゥアレグ祭典には参加したとのこと。
そもそも両者とも砂漠フェスへの参加予定はなく、TUも03年には協賛したが、その後は関係がないとのことでした。
今やEFESとティナリウェンとの間にかつてのような強い繋がりはないようです。
また、04年砂漠フェスでのギャラ未払の件も、「詳しくは知らないが、そんなことがあったのは聞いている」との答えでした。
要するに砂漠フェスは、公式サイトの主要な情報がデタラメな上、昨年来の金銭トラブルを抱えてすでに運営危機にあり、そんな状況のうちに05年砂漠フェスを開催し、取り返しのつかない不信を招く結果となったようです。

プログラムの混乱を除くと、砂漠フェス自体は実に楽しいものでした。
音楽を通しての地元の人々との触合い(ギター持参の私はジャム三昧!)や、決して望むことのない「砂体験」は、この会場ならでは。
コンサートでも、数は多くありませんでしたが、素晴らしい演奏も聴けました。
強靱な歌声と粘っこいグルーヴで地元ティンブクトゥの人々を熱狂させたカイラ・アルビィ、トゥアレグ〜ソンガイ・スタイルからルンバ・ロック、ブルース等あらゆるギターを弾きこなすバーバ・サラ、洗練されたショーを見せたニジェールのママール・カーシー等は、世界的には無名でも見応え充分。
ロック・スターの様なオーラを放つアビブ・コワテや、すでに大御所感漂うアフェル・ボクームは、両者ともCDで聴くより遙かにスケール大きく、圧倒的な演奏を聴かせました。
だからなおさら、サリフアリ・ファルカティナリウェン等の不在が悔やまれます。

私は、今回の旅で企画・同行してくれた旅行会社・道祖神さんを通じ、現地旅行社に真相究明と主催者による説明及び謝罪、何らかの払戻しを求めています(現地旅行社は「主催者は砂漠から帰ってこない」と言ってるようです)。
主催者側には、真相を説明する重大な責任と義務があります。
こんな詐欺まがいが罷り通るようでは、日本や欧米からの音楽ファンはもう参加しないでしょう。
砂漠フェスの注目度も下がり、トゥアレグは再び「見捨てられた民族」となるどころか、謂われのない汚名を着ることもあり得ます。
このような社会的意義と最上の娯楽性を併せ持つイヴェントが死んでしまうことは、私たち音楽ファンにとっても、トゥアレグやマリの全ての人々にとっても非常に残念で悔やみきれないことです。
諸問題が解明され、今後も無事開催されること、そして、トゥアレグをはじめ、とても親切なマリの人々や、好奇心に満ちた欧米の人々とともに、砂漠の平和郷を心から楽しめる日が来ることを願います。

2005.3.16 text by 7★

2005砂漠のフェスティヴァル会場にて


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