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第5章
多言語状況下で唄う
5-1 歌手と言語
トンブクトゥは、アフリカの他地域でも普通に見られるように、多言語状況下にある。最も有力な言語はソンライ語であるが、共通語になっているとは言えないようだ。
そのような状況の下、トンブクトゥ・ポップ草創期に活躍したアリ・ファルカ・トゥーレやハーベル・マイガは、ソンライの他、トンブクトゥの諸民族の言語で唄った。現在活躍するトンブクトゥの歌手は、どのような言語で唄うのであろうか。この項では、トンブクトゥの歌手が唄う言語状況を明らかにする。
5-1-1 住民聞き取り調査から
この項では、トンブクトゥ住民に対する聞き取り調査で得られた音楽家の名簿から、対象をトンブクトゥ出身の音楽家に絞って考察を試みる。
住民聞き取り調査によって得られたトンブクトゥ出身の歌手の名簿は、以下の通りである。聞き取りから名前の挙がったトンブクトゥ出身の音楽家のうち、楽器の演奏が専らである音楽家2人(Mohamed Ag Abotié : bidiga, Samba Arby : guitar)はこの名簿から除いた。
【表5-1】聞き取りから得られたトンブクトゥ出身歌手の名簿
凡例:arb=アラブ、アラブ語 bam=バンバラ語 dj=ジェンベ(マンデ系の片面タイコ)
fr=仏語 ful=フルベ、フルフルデ語 G=グループ gu=ギター
son=ソンライ、ソンライ語 th=テハラダント tam=トゥアレグ、タマシェック語
|
歌手名 |
性 |
担当 |
出身(県) |
民族 |
母語 |
その他の言語 |
01 |
Abeloye |
m |
th |
Tombouctou |
tam |
tam |
son |
02 |
Afel Bocoum |
m |
vo/gu |
Niafunké |
son/ful |
son |
tam,ful,fr,bam,★1 |
03 |
Ag Millili |
m |
th |
Tombouctou |
tam |
tam |
son |
04 |
Agoyboné |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam,bam |
05 |
Agulli Ag Moumini |
m |
th |
Tombouctou |
tam |
tam |
son |
06 |
Aissa Allamiridié |
f |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam |
07 |
Alassane |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam |
08
|
Alhou Ag Moussa
|
m
|
vo/th
|
Tombouctou
|
tam
|
tam
|
son
|
09 |
Ali Ag Moumime |
m |
th |
Tombouctou |
tam |
tam |
son |
10 |
Ali Farka Touré |
m |
vo/gu |
Niafunké |
son |
son |
tam,ful,bam,★2 |
11 |
Bacuin Ag Ajoumatte |
m |
vo |
Tombouctou |
tam |
tam |
son,fr |
12 |
Bakar Hamadallaye |
m |
vo/gu |
Niafunké |
son |
son |
bam,fr |
13 |
Bintou Garba |
f |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
fr |
14 |
Bocar Badia |
m |
vo/gu |
Tombouctou |
son |
son |
(none) |
15 |
Bocar Madiou |
m |
vo |
Goundan |
son |
son |
bam |
16 |
Guly Ag Moumouni |
m |
vo/th |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
17 |
Hama Cissé |
m |
vo/gu |
Niafunké |
son |
son |
fr |
18 |
Hama Youssoufi |
m |
vo/dj |
Tombouctou |
son |
son |
tam |
19 |
Hamadou Boyé |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
(none) |
20 |
Haudedeau Traoré |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam |
21 |
Kanna |
m |
vo/th |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
22 |
Khaïra Arby |
f |
vo |
Tombouctou |
son/arb |
son |
tam,arb |
23 |
Kia Maouloud |
f |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
arb |
24 |
Mkaren |
m |
vo |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
25 |
Mouna Ag Hinama |
f |
vo |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
26 |
Oumar Konta |
m |
vo/gu |
Tombouctou |
son |
son |
bam |
27 |
Sanfil |
G |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam |
28 |
Sekou Maïga |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
(none) |
29 |
Sidi Ag Ahia |
m |
vo |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
30 |
Sidi Touré |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
fr |
31 |
Tartit |
G |
vo/gu |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
32 |
Thialé Arby |
m |
vo |
Tombouctou |
son |
son |
tam,arab |
33 |
Tinetahaten |
G |
vo/th |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
34 |
Toutou |
m |
vo/th |
Tombouctou |
tam |
tam |
(none) |
35 |
Vieux Farka Touré |
m |
vo/gu |
Niafunké |
son |
son |
tam,ful,bam |
36
|
Wanti
|
m
|
vo/th
|
Tombouctou
|
tam
|
tam
|
(none)
|
★1は、他にhausa。★2は、他にdogon,bozo,moure,arab。
@トンブクトゥの歌手の第一言語 (n=36)
ソンライ語=21人 タマシェック語=15人
Aトンブクトゥの歌手の使用言語数 (n=36)
1語=12人 2語=16人 3語=5人 4語以上=3人
Bソンライ歌手について(n=21)
1.ソンライ歌手の使用言語数
1語=4人 2語=10人 3語=4人 4語以上=3人
2.ソンライ歌手の使用言語
ソンライのみ=4人 ソンライ+タマシェック=5人
ソンライ+他言語=6人 ソンライ+タマシェック+他言語=6人
Cトゥアレグ歌手について(n=15)
1.トゥアレグ歌手の使用言語数
1語=8人 2語=6人 3語=1人 4語以上=0人
2.トゥアレグ歌手の使用言語
タマシェックのみ=8人 タマシェック+ソンライ=6人
タマシェック+他言語=0人 タマシェック+ソンライ+他言語=1人
Dまとめ
以上のように、ソンライ歌手は主にソンライ語で唄い、その他のトンブクトゥ諸民族の言語で唄う。一方、トゥアレグ歌手は、タマシェック語のみで唄う場合が多い。このことから、トンブクトゥにおける多言語歌唱の傾向は、ソンライ歌手に顕著な傾向であるといえる。
5-1-2 楽曲の調査から
@調査方法
トンブクトゥ出身の歌手の入手できた6組の音楽家のアルバム17組・全160曲について、その歌唱言語を調査した。歌唱言語の特定には、下のいずれかの方法(可能な限り複数の方法)を取った。
1. CDなどの音源に付属しているデータから
2. 現地協力者とともに音源を聞き、特定
3. 歌唱者本人から確認
|
1曲中2言語で唄われている場合、それぞれの言語を0.5曲として数えた。また、歌のない器楽曲は、調査の対象から外した。
A調査対象と結果
[調査対象1]アリ・ファルカ・トゥーレ (Ali Farka Touré)
1.基礎情報*1
・民族=ソンライ ・獲得票数27票(2位) ・出身=ニアフンケ県
2.調査対象音源=8CDs、89曲
"ALI FARKA TOURÉ"[1988] "THE RIVER"[1990] "THE SOURCE"[1992]
"TALKING TIMBUKTU" (Ali Farka Touré & Ry Cooder)[1994] "RADIO MALI"[1996]
"NIAFUNKÉ"[1999] "RED & GREEN"[2004] "SAVANE"[2006]
3.結果
・歌唱言語(曲数)
ソンライ語*2(48.5)、 タマシェック語(4.5)、フルフルデ語(21)、 バンバラ語(9)、
マリンケ語(1)、 ボゾ語(1)、ドゴン語(1)、ムール語(2)、仏語(1)
【図5-1】アリ・ファルカ・トゥーレの歌唱言語の頻度
[調査対象2]アフェル・ボクム&アルキバル (Afel Bocoum & Alkibar)
1.基礎情報*3
・民族=父:ソンライ、母:フルベ(第一言語はソンライ) ・獲得票数10票(10位) ・出身=ニアフンケ県
2.調査対象音源=3CDs、34曲
"ALKIBAR"[1999] "NIGER"[2006] "TABITAL PULAAKU"[2009]
3.結果:歌唱言語(曲数)
ソンライ語(20)、タマシェック語(2.5)、フルフルデ語(8)、バンバラ語(2)、ハウサ語(1)、
仏語(0.5)
【図5-2】アフェル・ボクムの歌唱言語の頻度
[調査対象3]ヴィユー・ファルカ・トゥーレ*4 (Vieux Farka Touré)
1.基礎情報
・民族=ソンライ ・獲得票数=3票(18位) ・出身=ニアフンケ県
2.調査対象音源=2CDs、15曲 "VIEUX FARKA TOURÉ"[2006] "FONDO"[2009]
3.結果:歌唱言語(曲数)
ソンライ語(10)、フルフルデ語(2)、バンバラ語(3)
※ステージでは、タマシェック語でも唄う。
【図5-3】ヴィユー・ファルカ・トゥーレの歌唱言語の頻度
[調査対象4]ハイラ・アルビィ (Khaïra Arby)
1.基礎情報*5
・民族=父:アラブ/ベルベル、母:ソンライ/アラブ、第一言語はソンライ
・獲得票数=45票(1位) ・出身=トンブクトゥ県出身
2.調査対象音源=1CD、10曲 "YA RASSOUL"[n.d.]
3.結果:歌唱言語(曲数)
ソンライ語(6)、タマシェック語(2)、フルフルデ語(1)、アラビア語(1)
【図5-4】ハイラ・アルビィの歌唱言語の頻度
[調査対象5]チャーリー・アルビィ (Thialé Arby)
1.基礎情報*6
・民族=ソンライ ・獲得票数=16票(7位) ・出身=トンブクトゥ県
2.調査対象音源=1CD、10曲 "GABI HIDYÉ"[2009]
3.結果;歌唱言語(曲数)
ソンライ語(8.5)、タマシェック語(1.5) ※ステージでは、アラビア語でも唄う。
【図5-5】チャーリー・アルビィの歌唱言語の頻度
[調査対象6]ミステル・ジャズ・ドゥ・トンブクトゥ(Le Mystère Jazz de Tombouctou)
1.基礎情報*7
・1960〜70年代に活躍したトンブクトゥの州立バンド。
2.調査対象音源=2CD、2曲
"MALI '70 ELECTRIC MALI VOL.1"[n.d.] "同 VOL.2" [n.d.]
3.結果:歌唱言語(曲数) ソンライ語(1)、フルフルデ語(1) ※円グラフは省略
以上の結果をまとめると、下図のようになる。
【表5-2】音源から見たトンブクトゥ歌手の歌唱言語 (単位=曲数)
音楽家 \ 言語 |
son |
tam |
ful |
mandé |
その他 |
計 |
アリ・ファルカ・トゥーレ |
48.5 |
4.5 |
21 |
10 |
5 |
89 |
アフェル・ボクム&アルキバル |
20 |
2.5 |
8 |
2 |
1.5 |
34 |
ヴィユー・ファルカ・トゥーレ |
10 |
0 |
2 |
3 |
0 |
15 |
ハイラ・アルビィ |
6 |
2 |
1 |
0 |
1 |
10 |
チャーリー・アルビィ |
8.5 |
1.5 |
0 |
0 |
0 |
10 |
ミステル・ジャズ・ドゥ・トンブクトゥ |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
計
|
94
|
10.5
|
33
|
15
|
7.5
|
160
|
5-1-3 まとめ
住民調査で得られた音楽家名簿からも、音源の調査の結果からも、トンブクトゥの音楽家には明らかな多言語傾向が見られた。特に、ソンライ音楽家の多言語傾向が顕著で、トゥアレグ音楽家はその傾向が低い。
また、ソンライ歌手の中でも、ニアフンケ出身の音楽家の多言語傾向はより強いと言える。これは、聞き取りからも、ニアフンケには多くのフルベ系の人々が住んでおり、音楽家もフルフルデ語の歌をレパートリーに採用していることが原因と考えられる。また、ニアフンケ出身のアリ・ファルカ・トゥーレが多言語で唄ったことが、当地出身の音楽家に影響を与えているものと思われる。
ニアフンケ出身の歌手は、フルベの曲をレパートリーに多く採用している一方、トンブクトゥ県出身の歌手はトゥアレグの曲を多く採用している。 一方で、際だった傾向とは言えないまでも、トンブクトゥ県出身の音楽家は、タマシェック語の歌をより多くレパートリーとしている。また、アラビア語での歌唱も、比較的熱心であるといえる。
5-2 ソンライ音楽家の実践から---アフェル・ボクム
この項では、トンブクトゥ出身で、私がマリで行動を共にした音楽家アフェル・ボクム(Afel Bocoum)について記述する。ボクムは、前述のアリ・ファルカ・トゥーレと深い関わりをもち、トゥーレ同様に世界的名声を得た音楽家である。私が行った住民への聞き取り調査では、10票を得た。
彼の生歴や聞き取りから、その実践を検証する。
【写真5-1】アフェル・ボクム(左)とアルキバル。ギター奏者ママドゥ・ケリー(中央)、
カラバッシュ奏者ハマ・サンカレ(右)。(2009年5月、横浜にて)
5-2-1 生歴
@誕生、音楽との出会い
ボクムは、1955年、トンブクトゥ州ニアフンケ県に生まれた。ソンライの父、フルベの母を持った。次の【図5-6】は、ボクムへの聞き取りから作成した家系図である。
【図5-6】アフェル・ボクムの家系略図
ボクムによると、彼自身の帰属意識はソンライである。しかし、一方で「ボクム」とは本来フルベの姓*8であり、ボクム自身も認識している。
ボクムによると、トゥーレ(Touré)はソンライ、アブティナ(Abthina)、バリ(Barry)、ボクム(Bocoum)、ジャロ(Diallo)、サンカレ(Sankaré)はフルベの家系であるという。以上を踏まえて家系図を見ると、ボクムの父(Hamadou Abthina Bocoum)*9も母(Mata Mahanane Diallo)もフルベに見える。父方の祖母はTouré姓のソンライであり、母方は4代遡ってフルベの家系である。「私たちの家は、家畜を持たないので、フルベとは言えない」とも話した。また、ボクムは「民族意識は父から、良識は母から受け継ぐ」とも語り、ソンライとしての民族意識とフルベとしての良識を併せ持っていると話した。こういった民族帰属意識は、非常に難解である。
また、図中にはグムボ(Goumbo)というソニンケの姓も見られ、この地域の多様な民族構成の一端を伺わせる。
図中には、アリ・ファルカ・トゥーレの名を見つけることが出来る。各種のあらゆるインタビューで、ボクムは「トゥーレは私のオジだ」と答えている。しかし、家系図から見ると所謂「父母の兄弟」という意味でのオジではない。「母方の祖母の姉妹の前妻(または後妻)の子」がトゥーレである*10。
もう一人、図中にボクムの従兄弟のハマ・サンカレ(Hama Alpha Sankaré)の名も見える。彼は、ボクムの楽団アルキバールのカラバッシュ奏者である。
ボクムの本名は、ハマドゥ・ボクム(Hamadou Bocoum)であるが、母がイスラーム風の名を好まなかったため、フルフルデ語で「My Love」という意味を持つ「アフェル」という名で呼んだ*11。家庭内では、ソンライ語とフルフルデ語を話した。
ボクムの父は、音楽家を職業としており、地元ではよく知られていたという。各地の結婚式や儀礼などでンジャルカやンジュルケルなどの伝統楽器を奏でた。なお、ボクムの家系はグリオではない。ボクムは、幼い頃から自然と伝統楽器に親しみ、奏法を会得した。父について結婚式や儀礼に同行しては地域に伝わる音楽を聞き覚えた。
Aトゥーレ、マイガとの出会い
音楽好きであったボクム少年*12は、ニアフンケでアリ・ファルカ・トゥーレとハーベル・マイガの参加したニアフンケ県立楽団の演奏を聴いた。このとき、すでにトゥーレとマイガは地元のスターで、トゥーレのギターとマイガの歌はすっかりボクムを魅了した。このときから、ボクムは彼らに「つきまとう」ようになり、お茶*13を入れたり使い走りをしたりして、「ファミリー」に潜り込んだ。
ボクムは、伝統楽器や歌などを彼らに披露し、徐々に受け入れられていった。特にボクムの高音による歌声は、トゥーレやマイガに強い印象を与えていた。特にマイガはこの少年の才能を認め、ボクムを見習いとして歌唱や作曲、ギターなどを手ほどきした。トゥーレのギターはいわば自己流であるうえ、手の動きが速すぎて少年には難しすぎたようだ。この頃から、ボクムはマイガを「父」のように慕うようになった。
1968年、ボクムが13歳の時、トゥーレが自らの楽団ASCOをつれて演奏するときに、予定していた歌手が会場に現れなかった。その時、ボクムが代役としてステージに上り、人前で初めて唄うこととなった。これがボクムの歌手デビューとなった。評判は上々で、これ以降ASCOの歌手として迎えられることとなった。
B音楽活動の開始
同じ1968年、モプティで開かれた若者週間の音楽コンテストに、ボクムはトゥーレとマイガの楽団*14の一員として参加した。ここでボクムは、「槍の使い手」*15というフルベの伝統曲を唄った。こうして、ボクムはプロ歌手としてのキャリアをスタートさせた。
1972年、17歳の時に、バマコで開催された第2回隔年芸術文化祭の音楽コンテストに、ボクムは唯一の男性歌手*16として、また、唯一のバンバラ語で唄わない歌手として出演した。トゥーレとモディボ・クヤテ*17のギターの伴奏で、「マリの子どもたち」*18というソンライの歌を唄った。スタジアムに詰めかけた3,000人の聴衆の前で、ボクムは非常に緊張したという。聴衆の反応は非常に良かったが、ボクムは2位に終わり、優勝はバンバラ語で唄った女性歌手が掠った。
ラジオ・マリによって録音されたこのときのボクムの歌声は、繰り返し放送され、ボクムの歌声はマリ全土で知られることとなった。
C農業学校から農業指導員へ
1975年20歳の時、ボクムは政府の奨学金を得てシカッソ州ンペッソバ*19の国立農業学校へ入学した。そのため、ニアフンケに拠点を置くトゥーレとの音楽活動が困難となった。
3年後の1978年、同校を卒業し、政府の農業開発指導員としての職に就いた。職場はジェンネ*20であった。ボクムは仕事でマリ中部を中心とした各地を訪れる機会を得て、農民の暮らしを直接見聞した。そこで、マリの問題点や希望などを肌で感じることとなった。しかし、ニアフンケでの音楽活動はこれまで以上に難しくなった。
Dソロ活動の開始
ボクムの父は、息子が故郷に戻りたがっているのを察して、職場をニアフンケにしてもらえるように政府に働きかけた。その結果、1980年にボクムは帰郷を果たした。
ボクムは、農業指導員の仕事を続けながら、音楽活動を再開した。しかし、公務員としての仕事を優先したため、トゥーレのASCOからは離れ、地元の従兄弟や友人らと独自に演奏するようになった。従兄弟のカラバッシュ担当ハマ・サンカレ(上述)、友人のンジャルカ担当ハシ・サレ(Hassey Saré)、ンジュルケル担当ヨロ・シセ(Yoro Cissé)ら*21である。トゥーレとの演奏は、日程が合えば手伝う、という形に限られた。
またこのころ、地域の農業指導の集会などで、ギターを弾いて歌い始めた。新聞なども読めなかったり、ラジオや映画を見聞きすることも出来ない人たちには、歌が情報を伝えるのに有効な手段であると考えたからだ。また、メッセージを効果的に伝えるため、バンバラやタマシェックなど、ソンライやフルフルデ以外の言語でも積極的に作曲するようになった。地域の歴史や民族融和、身近なニュース、農業技術などについての曲を作って、集会などで演奏した。次第に音楽活動は活発になり、ボクム自身の楽団も形を整え始めた。やがて彼らは「アフェル・ボクム&アルキバル(Afel Bocoum & Alkibar)」と名乗るようになった。1982年には、大きなステージにでも演奏出来るように楽器を電化するなど、活動も活発になった。
1983年に、恩師ハーベル・マイガが交通事故により亡くなった。ボクムは、マイガの遺志を継ごうと、音楽への思いを強くしたという。
E国際舞台へ
1991年、ボクムはトゥーレの欧州・北米ツアーに参加した。この公演旅行は、ボクムにとって初めての国外演奏であり、初めて欧米の観客の前で唄った。
ツアー中、ロンドンでワールド・サーキットによるトゥーレのアルバムの録音に参加。5曲での歌の他、コーラスや曲中のナレーションを担当した*22。アルバム中に聞かれる力強く、張り詰めたような高音による歌唱は、非常に強い印象を与え、トゥーレと並ぶほどの存在感を示している。アルバム"THE SOURCE"は、翌1992年に発表された。
【写真5-2】"THE SOURCE" Ali Farka Touré
1993年以降は、地元での活動に留まった。この頃、詳細は聞き取れていないが、当時マリ北東部で活発であったトゥアレグの反政府活動*23に対して、トゥアレグの砂漠のキャンプへ出かけ、平和を訴えかける演奏活動を行ったようだ。
Fソロ・アルバム制作~「フルタイム・ミュージシャン」へ
1997年、ワールド・サーキットのゴールドが、トゥーレのアルバム"NIAFUNKÉ"を録音するために、ニアフンケに簡易スタジオを持ち込んだ。このとき、ボクムのファースト・アルバムの録音も、ワールド・サーキットによって行われることとなった。ボクムとアルキバルのメンバーは、トゥーレに先立ってアルバムの録音を行った*24。
こうして、アフェル・ボクム&アルキバルのファースト・アルバム"ALKIBAR" が完成し、1999年、発表された。このアルバムは、米国のノンサッチ・レコード社によって世界に配給された*25。
【写真5-3】"ALKIBAR"
またこの頃、ボクムは農業指導員の職を辞している。職を辞したボクムは、活動を一層活発にした。
2000年、英国ロック歌手デイモン・アルバーン*26が、マリの音楽家とともにアルバム制作の企画を進めているとの話を聞きつけ、ボクムは自ら働きかけて録音に参加した。
2001年には、アフェル・ボクム&アルキバルは初の世界ツアーに出た。
2002年、アルバーンらと録音したアルバムは"MALI MUSIC"*27として発表され、英国のロック・ファンにボクムの名を知らしめることとなった。翌年、アルバーンのコンサートに客演した。デンマークのロスキルデ・フェスティバル*28では、メイン・ステージに立ち、6万5000人の観客の前で演奏した。
【写真5-4】"MALI MUSIC" Damon Albarn, Afel Bocoum, Toumani Diabaté
2004年の夏、歌手・ギター奏者のアビブ・コイテ*29とトゥアレグ女性グループ・タルティット*30とともに「デザート・ブルース・プロジェクト」*31を結成して欧州ツアーを行い、各地の音楽フェスティバルなどに出演した。翌年も、ツアーは継続された。
このように、ニアフンケで公務員としての仕事と地元の人々を相手に演奏していたボクムの生活は一変し、一気に国際的な音楽ビジネスの世界に歩み入った。
Gトゥーレとの確執~死別
世界の舞台から半ば退いていたトゥーレは、ボクムの成功に多少ならず不快な思いを抱いていた。特に、トゥーレが大きな音楽的信頼を寄せていたサンカレが、ボクムのアルキバルでの活動に忙しくなったことに対する不満が大きかった。サンカレは、兄弟同然に育ったボクムとの活動に熱心で、アルキバルにおいても編曲を担当するなど、音楽的に大きな役割を果たしていた*32。
ボクムの活動は順調で、ワールド・サーキットによる新譜の制作が企画されていた。しかしその際、トゥーレはワールド・サーキット側に「私か、ボクムかのいずれかを取れ。ボクムの新譜を制作するなら、私はもうワールド・サーキットと契約しない」と、選択を迫った。ボクムもワールド・サーキットもともに困惑したが、最終的にワールド・サーキットはボクムとの契約を解除した。この決定に、サンカレは怒り、トゥーレとの関係は険悪なものとなり、ボクムもトゥーレと疎遠になった。ワールド・サーキットによるバマコ録音*33では、結局トゥーレの録音は行われたが、ボクムのものは実現しなかった。
ボクムは、新しいレーベルを探した結果、アビブ・コイテも所属し、「デザート・ブルース・プロジェクト」でも交流があったベルギーのコントル・ジュール社*34との契約に至った。新譜は、2006年、バマコのスタジオ・イェーレン*35で録音された。
同年3月、アリ・ファルカ・トゥーレが骨癌のため死去。トゥーレとボクムたちとの関係の修復はならなかった。ボクムは、「アリのことは尊敬しているし、恩人として感謝している。アリが偉大な音楽家であったことは、変わらない。しかし、晩年の私たちの関係は不幸だった。特にサンカレは、アリの死の直前まで、彼に会おうとしなかった」と話している。
ボクムの新譜には、"Ali Farka"というトゥーレへの追悼歌が追加され、同年"NIGER"として発表された。
【写真5-5】"NIGER"
H現在
2005年、ボクムとアルキバルは米国バンジョー奏者ベラ・フレック*36のアルバム"THROW DOWN YOUR HEART"*37[2009]のバマコ・セッションに参加。アルキバルのメンバーにフレックを加えてオリジナル曲"Bulibaral"*38を演奏した。
【写真5-6】"THROW DOWN YOUR HEART" Béla Fleck
2008年9月、スタジオ・イェーレンにてコントル・ジュールによる新譜の録音を開始し、アルバムは2009年5月に"TABITAL PULAAKU"として発表された。
同年5月、横浜市と外務省が共催する「横浜アフリカン・フェスタ2009」の外務省招聘メインゲストとして、ハマ・サンカレ(カラバッシュ)、ママドゥ・ケリー(Mamadou Kelly Ousmane、ギター)とともに来日*39した。アフェル・ボクム&アルキバルとしては初めての日本での公演となった。
来日に合わせて、"TABITAL PULAAKU"の日本盤*40が発売され、横浜でのインタビュー記事が4誌に掲載された*41。同年8~10月には、欧州ツアー*42を行った。
現在でも故郷ニアフンケに留まり*43、農業の傍ら、演奏活動を続けている。
【写真5-7】"TABITAL PULAAKU" 日本盤販売促進用のポップ。
「本業は農家のオーガニック・ブルースマン」との手書きコピーが添えられている。
(2009年7月、大阪梅田にて)
5-2-2 聞き取りから
ボクムは、聞き取りの中で、自身を含むトンブクトゥの歌手が多言語で唄うことの理由について、以下のようなことを語った。
「トンブクトゥの歌手の多くは、マイガやトゥーレの影響を受けて、当然のように多言語で唄うようになった。」
「多くの民族が住むトンブクトゥでは、一つの言語で唄っても、一部の人々にしか理解してもらえない。」
「ソンライで唄えば、モプティ~ガオ~ニジェール(国)の人々に、タマシェックで唄えばサハラの人々に、フルフルデで唄えばセネガルからナイジェリア、カメルーンの人々にもメッセージを届けられる。」
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以上のように、ボクムは、トンブクトゥの歌手が多言語で唄うようになったのは、マイガやトゥーレの影響であることを認めている。また、多言語による歌唱が、トンブクトゥのより多くの人々に自分の唄を聴いてもらうために効果的であると感じているようである。また、多言語歌唱により、トンブクトゥ以外の地域の聴取者をも獲得出来ると考えているようである。
また、トンブクトゥ以外の地域出身で、多言語歌唱を試みる歌手については、ウム・サンガレやアビブ・コワテの名を挙げた。両者は、社会問題を扱うような歌詞で知られる。しかし、彼らの歌唱言語を特定しようと、助手とともに作業を行ったが、助手が「ほとんどバンバラ語で、意味がない。時間の無駄だ」との反応であった。事実、ウム・サンガレは20曲中1曲がソンライ語で、他はバンバラ語であった。従って、両者が多言語で唄う歌手であるとの認識は、一般的ではないと言える。
5-2-3 曲作り
ボクムは、曲作りに際しては、必ず各民族の伝統曲をモチーフにするという。歌唱言語は、当然のようにその伝統曲の言語を用いる。従って、1曲の中で、言語がソンライからフルフルデへ、またはタマシェックからバンバラへ、などというように切り替わることはあり得ない。しかし、タマシェック語で唄っていた曲が、終盤に仏語に切り替わる例は1曲*44で見られた。その場合、それまで唄われていた伝承的な物語をタマシェックで唄い、突然、現在世界各地で起こっている紛争の終結を仏語で訴える、というものだ。
ボクムは、これまでアルバムに録音し、発表した全34曲では、ソンライ、フルフルデ、タマシェック、バンバラ、ハウサで唄い、仏語で語りを入れることもある*45。
作曲の順序は、先ず唄いたい内容をイメージし、それに相応しいメロディを探す。フルベについて唄うときにはフルベの伝承曲をモチーフにフルフルデ語の歌詞を付け、トゥアレグに関係のある事柄を唄うときにはトゥアレグの伝承曲にタマシェック語の歌詞を・・・、という具合に作曲を進める。当然、この順序は前後することもあれば、同時に歌詞とメロディが作られることもある。
ボクムは、聞き取りの中で、好きな音楽家として、米国黒人歌手/作曲家ではライオネル・リッチー*46、スティーヴィー・ワンダー*47、ジェイムズ・ブラウンなどの名を挙げた。他に、英国歌手/作曲家のヴァン・モリスン*48、ギター奏者のジミ・ヘンドリックス*49、白人歌手/作曲家のボブ・ディラン*50、ブラジル歌手/作曲家のジョルジ・ベン・ジョール*51などの名を挙げた。アフリカの音楽家では、セネガルのユッスー・ンドゥール*52とチョーン・セック*53、ギニアのベンベヤ・ジャズ*54など、隣国の音楽家の名を挙げた。
ボクムは、上記の音楽家の他、ブルースやレゲエなど、幅広い音楽を聴取している。マリ国内の音楽家について批評することは無かった。
5-2-4 歌詞、メッセージ
@歌詞の内容:何を唄っているのか
ボクムは、歌詞にメッセージを込めているという。発表されたアルバムから、その歌詞内容を検討し、彼の言うメッセージの内容を見てみよう。
既発の3種のCD "ALKIBAR" [1999]、"NIGER" [2006]、"TABITAL PULAAKU"[2009]に付属しているブックレットに掲載されて日本語による歌詞の要約、英語仏語訳などから、34曲の歌詞を比較検討した。全曲の歌詞要約および私自身による日本語訳は、巻末の付録T(pp.162~)に掲載した。全曲の歌詞内容を分類した結果、以下のようになった。
*社会問題に関する歌=29曲
1.社会連帯、価値の崩壊への警告=8曲 (ソンライ7、フルフルデ1)
・社会的結束、連帯の呼びかけ ・金銭をめぐる人間関係に対する嘆き
・伝統的価値観、良識に対する信頼と、その崩壊への危機感
・他人に対する妬みへの戒め など
2.社会的弱者の地位向上を訴える=6曲 (ソンライ4、ハウサ1、バンバラ1)
・年配者への尊敬 ・女性の地位向上、強制的な結婚への異議
・子どもや女性への暴力への戒め など
3.マリ、アフリカ発展への努力の呼びかけ=5曲
(ソンライ2、フルフルデ2、バンバラ1)
・祖国発展への国民の結集、努力の呼びかけ ・祖国への愛の重要性の訴え
・勤労の勧め など
4.他民族への共感を訴える=4曲 (ソンライ1、タマシェック1、フルフルデ2)
・フルベの苦難について ・定住を選んだトゥアレグへの賛歌
・ソンライへの服従に対する異議申し立て
※歌唱言語は、それぞれのテーマの民族に対応
5.環境問題について=2曲 (ソンライ1、フルフルデ1)
・森林保護 ・ニジェール川の保全
6.マリ賛歌、故郷賛歌=2曲 (ソンライ2)
7.アフリカ人の地位向上=1曲 (ソンライ1)
8.世界平和=1曲 (タマシェック1)
*その他の歌=5曲
9.個人への賛辞、追悼歌=曲4 (ソンライ2、タマシェック1、フルフルデ1)
※賛辞や追悼の相手の言語に合わせて、言語を選択
10.ダンス曲=1曲 (フルフルデ1)
以上のように、社会問題に関わる内容を持つ曲が34曲中29曲(約85%)、関わりがない曲が5曲(15%)と、ボクムの唄う歌の多くには何かしらの問題意識が認められ、ボクムの言う「メッセージ」が込められていると言える。
ボクムの師匠筋に当たるトゥーレも、第3章で述べたように、社会問題を扱う歌を唄っていた。しかし、その内容は政府の方針に応じた労働賛歌や、伝統的な教訓を唄うものが多く、その内容は深いとはいえなかった。しかし、ボクムは歌詞が唄う社会問題は幅広く、ボクム自身の見解や意志も盛り込まれるなど、内省的かつ現代的な内容を持っている。
ボクムの率いる楽団アルキバル(Alkibar)は、ソンライ語で「大河のメッセンジャー」という意味である。ここでいう大河とはニジェール川のことで、ボクム自身「ニジェール川のメッセンジャー」を自負している。先にも述べたように、ボクムは農業指導員時代、新聞や映画、ラジオに触れることのできない人たちに、できるだけ多くの情報を与えたいとの希望が、音楽活動に対する動機の一つであった。そのメッセンジャーとしての自負が、歌詞にも表れているといえる。
5-3 ソンライ音楽家の実践から---ハイラ・アルビィ
次に、トンブクトゥを代表する歌手であるハイラ・アルビィ(Khaïra Arby)について述べる。アルビィは、私が行った住民への聞き取り調査では、最大の45票を得て抜群の人気であった。彼女は、マリ全土では名前は知られているものの、世界的名声を得るには至っていない。従って、雑誌記事やウェブサイト上でも、情報は非常に少ない。
ここでの生歴は、私自身がおこなったアルビィへの聞き取りと、断片的なレビュー記事などから構成した。
【写真5-8】ハイラ・アルビィ(左から3人目)と「ファミリー」。(2009年9月、トンブクトゥにて)
5-3-1 生歴
ハイラ・アルビィは、トンブクトゥ市北方の砂漠の村・アグニ(Agouni)に生まれた。生年は不詳である。父はアラブ・ベルベル(トゥアレグと思われる)系の血統を持ち、母はソンライ・アラブ系の血統を持つという。家族に、唄ったり楽器を演奏したりなど、音楽をする者は居なかった。
アルビィは、物心ついたころから歌が好きで、5歳の頃には人前で唄っていたという。トンブクトゥの伝統的な曲が好きだった。いつしか、歌手を志すようになるが、両親、特に父親は反対していた。父は、アルビィに「グリオのようなまねをするな」と言って、咎めた。
8歳の時、ガオで開かれた音楽コンテストにトンブクトゥ代表の歌手として参加し、優勝した。11歳の時には、バマコで開かれた隔年芸術文化祭に出場し、やはり優勝。アルビィは、マリで名の知られた「少女歌手」となった。続いて、マリの国際音楽使節に選ばれてチュニジアで演奏する機会を得た。アルビィにとって、初の国外での演奏であった。
この頃には、母はアルビィに理解を示すようになった。しかし、父は相変わらず娘のこのような活躍を快く思わず、娘に断ることなく婚約の話を進めていた。そして、アルビィは14歳のときに、意にそぐわないまま結婚させられた。
父同様に夫も音楽活動には反対であったので、アルビィは唄う機会をことごとく奪われた。音楽活動が出来るよう父や夫に頼んでみたものの、受け入れられなかったので、アルビィは結婚後ほどなく離婚を考えた。
15歳の時、反対を押し切って地元のステージに立ち、歌手活動を再開した。父や夫は、変わらず反対していたため、口論が絶えなかったという。
そして、22歳の時、アルビィはついに離婚を果たし、音楽活動に全力を注ぐ環境が整った。その頃、トンブクトゥ州立楽団*55の一員として初めてのスタジオ録音を経験した。
その後、バマコの国立楽団オルケストル・ナシオナル・バデマ*56に参加し、隔年芸術文化祭や各地の音楽祭に出演した。その間、3種のアルバムを録音したというが、現在では入手出来ない。
その後、トンブクトゥに戻り、自らの楽団を得たアルビィは、2002年と2005年には欧州ツアーを行い、ベルギーやオランダで演奏した。また、この頃、現在唯一入手可能なアルバム"YA RASSOUL" を発表した。
2009年、バマコで新譜を録音し、発表予定である。プロモーション活動のために渡欧した。
【写真5-9】"YA RASSOUL"
5-3-2 聞き取りから
アルビィは、聞き取りの中で、以下のようなことを語った。
「多言語で唄うのは、メッセージを伝えるため。トンブクトゥの歌手はみんなそうして唄ってきた。特別なことではない。」
「若すぎる歳での強制的な結婚、バマコなどへ移住したトンブクトゥ出身の人々、マリの民主主義や発展、平和や愛について唄っている。そのような、メッセージのある歌を唄いたい。」
「トンブクトゥの人々のために唄いたいので、ここを離れるつもりはない。」
「トゥーレは偉大で、トンブクトゥで影響を受けていない音楽家はいない。」
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以上から、アルビィもボクムと同様、歌詞には彼女の経験から生じたメッセージを込めていると語っている。現時点で、歌詞の具体的な内容を知ることは出来ていないが、生歴からも、女性の自己実現や、それが可能な民主的社会の建設など、彼女が自分自身のものとしての問題意識を持っていることが伺える。その問題意識を、メッセージとして伝えるために、多言語による歌唱を選択しているという。
また、アルビィは、トンブクトゥの人々に向けて唄うために、バマコに拠点を置くことなく*57、意識的にトンブクトゥに留まっていると語っている。
このような多言語歌唱や地元に拠点を置いての音楽活動などは、トゥーレとの共通点を見せる。アルビィによると、トンブクトゥの音楽家への影響は大きく、彼女自身もその影響を認めている。
5-4 まとめ
トンブクトゥの音楽家には、明らかな多言語歌唱の傾向があることが解った。トンブクトゥは、様々な民族が混住する多言語状況にあり、歌手が選ぶ歌唱言語にも影響を与えていると考えられる。
また、多言語歌唱は、ソンライ系の歌手に顕著な傾向である。そのソンライ歌手の先達となっているのは、アリ・ファルカ・トゥーレである。聞き取りから得られた証言からも明らかなように、トゥーレはトンブクトゥの音楽家の活動に大きな影響を与えた。トゥーレは、トンブクトゥ諸民族の伝統曲を、それぞれの民族語で唄い、最終的には世界的名声を得るに至った。その歌声は、ラジオを通じてトンブクトゥの人々へも届き、それを聴いて育った世代の音楽家は、同郷の偉大なスターを強く敬愛したことであろう。
現在活躍中のトンブクトゥの、特にソンライ音楽家が「当然のように」多言語で唄うのには、このような背景があるものと思われる。
また、聞き取りをしたボクムやアルビィは、いずれも自らの歌詞に込める「メッセージ」を伝えることに重きを置いていた。トゥーレの歌詞からは、そのようなメッセージ性は伺えないが、ボクムやアルビィは社会問題を積極的に唄っている。また、両者はいずれも自らの経験から、社会問題を自分のものとして意識しているようである。ボクム、アルビィ以外にも聞き取りをした若い音楽家*58も、教育や環境などに関心を持って、「メッセージ」のある歌を多言語で唄っていた。このような「メッセージ」を聴取者に伝えるためには、聴取者が理解出来る言語で唄う、というわけである。
*1 第3章で詳述
*2 ジャルマ語、ソンゴイ語などと表記されたソンライ方言も含む。
*3 本章5-3で詳述。
*4 1981年生。歌手、ギター奏者。アリ・ファルカ・トゥーレの二男。父の音楽を引き継ぎつつ、ロックやレゲエなども吸収したダイナミックな演奏で、欧米でも人気が高い。音楽の手ほどきは、マリンケ・コラ奏者トゥマニ・ジャバテから受けた。
*5 本章5-4で詳述。
*6 第4章4-4で触れた。
*7 第3章で述べた。
*8 ボクム姓については、私がバマコで世話になった別の「ボクムさん」は、「オレはフルベだ」と言っていた。
*9 父の名は、Nonesuchによるボクムのインタビューでは Kodda Bocoum と答えている。Koddaは愛称であると思われる
*10 聞き取り中、ボクムはトゥーレを「おじ(uncle/oncle)」や「おじさん(tonton=トゥーレのあだ名でもある)」などと呼んだことは一度もなく、「アリ」または「アリ・ファルカ」と呼んでいた。
*11 母が名付けた呼び名の全ては、Afel Kodda Héréré é Horboré である。
*12 ボクムが10~12歳の頃と思われる。
*13 マリでは、濃い緑茶に砂糖をたっぷりと入れたお茶を頻繁に飲む。これは、しばしば少年の役目である。
*14 この楽団は、ニアフンケ県立楽団であると思われる。
*15 英題は"He Who Uses the Spear"。
*16 ボクムは、「マリでは、高い声が好まれるため、女性歌手が多い」と語った。
*17 Modibo Kouyaté。マンデ系ギター奏者、作曲家。
*18 原題は"Sukabe Mali (Children of Mali)"。
*19 M'Pessoba。マリ南東部シカッソ州コウティアラ市郊外。
*20 Djenné。モプティ州にある、ニジェール川大氾濫原に浮かぶ古都。UNESCO世界文化遺産。日干し煉瓦で出来た大モスクで有名。
*21 ボクムの演奏仲間のうち、サンカレとサレは、トゥーレのASCOと掛け持ちでの参加であった。特に、トゥーレはサンカレを厚く信望し、海外ツアーなどには必ずサンカレを伴った。
*22 ボクムは、01Goye Kur、02Inchana Massina、04Dofana、05Karawの4曲で主唱、06Hawa Doloではトゥーレとのデュエットを担当。04Dofanaで仏語によるナレーションを担当した。なお、このアルバムの録音には、カラバッシュのサンカレも参加した。
*23 トゥアレグの自治権拡大などを要求した運動が過激化し、1990年に武装闘争と発展した。トンブクトゥ、キダール、ガオなどで活発化し、マリ政府軍との内戦にまで発展した。1996年、和平が成立。トンブクトゥ市内にトゥアレグの武装解除の象徴として、大量の火器を焼却する儀式を行った。跡地には「平和の灯(La Flamme de la Paix)」のモニュメントが建てられている。ただし、トゥアレグの反政府的活動は完全に収まっている訳ではなく、マリではキダール北部に残存する。
*24 ボクムとアルキバルのメンバーは、トゥーレのアルバム"NIAFUNKÉ"にも参加している。ボクムは、05Hilly Yoro と 09Jangali Famata で主唱を担当している。
*25 ノンサッチ・レコード社(Nonesuch)は、1964年米国で設立。ワールド・ミュージックを得意とする。現在はワーナー・ミュージック傘下。"ALKIBAR"は、日本でもワーナー・ミュージック・ジャパンより発売された。
*26 Damon Albarn。歌手、ギター奏者、作曲家。英国人気ロックバンド、ブラー(Blur)の中心人物。
*27 "MALI MUSIC"で、ボクムは4曲に作曲者として名を連ねる。ボクムとアルキバルの他、マリからはコラ奏者トゥマニ・ジャバテ、歌手カッセ・マディ・ジャバテ(Kassé Mady Diabaté)、歌手・ギター奏者ロビ・トラオレ(Lobi Traoré)らが参加した。他に、英国やカリブ地域の音楽家が多数参加している。
*28 Roskilde Festival。1971年より、コペンハーゲンで毎年開催される大規模なロック・フェスティバル。2003年は6月26~29日に開催された。
*29 Habib Koité。マリ人自作自演歌手兼ギター奏者。前出。
*30 Tartit。トンブクトゥを拠点に活動する、トゥアレグの音楽ダンス・グループ。私の聞き取りによる人気投票では、トゥアレグ住民からの2票を得ている。
*31 Desert Blues Project。コイテのバンド・バマダ(Bamada)に、ボクムのアルキバルも加わった大規模なバンド編成で、マリ北部の音楽を俯瞰するようなステージを見せる。現在も、マリ国内の音楽祭などを中心に継続して活動している。
*32 サンカレは、アルキバルでのリハーサルでも指導的役割を果たしている場面を観察した。
*33 2004年7月、ワールド・サーキットによってマンデ・ホテルで行われた録音セッション。このとき、トゥーレは"IN THE HEART OF THE MOON"と"SAVANE"を録音(第3章参照)。"SAVANE"にはボクムとサンカレの名前もクレジットされているが、彼らはマンデ・ホテルでの録音には参加しておらず、サンカレもコーラスのみでカラバッシュを演奏していない。このとき、トゥーレはニアフンケの音楽家をほとんど起用せず、マンデ系音楽家と共演している。
*34 Contre Jour。アフリカやカリブ海のポピュラー音楽を得意とする独立レーベル。マリでは、アビブ・コイテ、ケレティギ・ジャバテなどが所属する。
*35 Studio Yeélén。アルキバルのベース奏者、バロゥ・ジャロ(Barou Diallo)が経営する。ジャロはバマコ在住で、ボクムのマネジメントも行う。
*36 Béla Fleck(1958~)。米国の5絃バンジョー奏者。'80年代、マンドリン奏者サム・ブッシュ(Sam Bush)率いる革新的ブルーグラス・バンド、ニュー・グラス・リヴァイヴァル(New Grass Revival)に参加。'90年代からはジャズ・フュージョンバンド、フレクトーンズ(Flecktones)を率いる。疑いない世界最高のバンジョー奏者。アイルランド、アフリカ、中国、インドなどの音楽家とも共演。
*37 フレックがアフリカ各地の音楽家と共演。マリからは、ボクムの他、ウム・サンガレ、バセクー・クヤテ、ギター奏者ジェリマディ・トゥンカラ(Djelimady Tounkara、1968年ブルガリアに派遣されたマリ代表楽団の一員)らが参加。
*38 初アルバム "ALKIBAR" track03として収録。
*39 【写真5-1】参照。
*40 日本盤は、オルターポップ、メタ・カンパニーから発売された。
*41 ミュージック・マガジン(7月号)、ラティーナ(7月号)、CDジャーナル(9月号)、Do Do World(10月号)の4誌。
*42 オランダ、スイス、スペイン、スロベニア、ドイツ、フランス、ベルギーの7カ国で、11回の演奏会が行われた。
*43 ボクムは、ニアフンケに家族が過ごす本宅を、バマコ近郊ティエバニに仮宅を持つ。仮宅には、ニアフンケの音楽家とともに滞在する。
*44 "NIGER" track12 "Uma Eya"。この曲は、トゥアレグの人気のある伝承曲を、ほぼそのままに演奏したものである。
*45 ボクムの各言語の使用頻度は、他の歌手とものとともに第6章で述べる。
*46 Lionel Richie[1949~]。R&B歌手、作曲家。1970年代からヒット曲を量産する。
*47 Stevie Wonder[1950~]。R&B歌手、作曲家。黒人音楽史に輝く、米国の国民的大スター。
*48 Van Morrison[1945~]。英国北アイルランド出身の歌手、作曲家。アイルランドの伝統音楽に、R&Bを大胆に取り入れた音楽で世界的な人気を得る。所謂 'Blue-eyed Soul' の第一人者。
*49 Jimi Hendrix[1942~1970]。1960年代、ロック・ギターの歴史を一人で塗り替えた天才。
*50 Bob Dylan[1941~]。ロック・フォーク作曲家、歌手。説明不要の、ポピュラー音楽史最大の巨人の一人。
*51 Jorge Ben Jor[1942~]。サンバにロックやファンクなどを取り入れた革新的な音楽で人気。ブラジルで最も有名な音楽家の一人。
*52 Youssou N'Dour[1959~]。抜群の世界的知名度を誇る、文字通りアフリカ随一のスーパースター。
*53 Thione Seck[1955~]。1970年代から活躍する人気歌手。世界デビューも果たしている。
*54 Bembeya Jazz (National)。1960年代から活躍する、ギニアの名門楽団。リー[1992]に詳しい。マリでは、ギニア音楽の聴取は規制されなかったという。
*55 ミステル・ジャズ・ドゥ・トンブクトゥと思われる。
*56 L'Orchestre National Badema。
*57 アルビィとその楽団は、バマコでの演奏活動の際には、ホテルに滞在することが多い。
*58 例えば、"Timbuktu Music Project"を主催する歌手で打楽器奏者のB.M.。このプロジェクトは、トンブクトゥにおいて、学齢者には初等教育と音楽教育を、地元の音楽家にスタジオや機材を提供しようとする。将来は、トンブクトゥを音楽都市とすることを目ざすという。
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