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第7章
 
outro
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7-1 考察
 
 これまで、トンブクトゥにおけるポピュラー音楽の特性と、その背景について論じてきた。ここでは、その議論を踏まえ、トンブクトゥ・ポップを通じて見えてくる、当地の文化的特性について考察を試みる。
 
7-1-1 多言語歌唱の背景
 トンブクトゥ・ポップの顕著な特徴として、ソンライ歌手を中心に見られる多言語歌唱かある。
 多言語歌唱は、まず政策によって、各州立楽団に地域色の強い演奏が奨励されたことが原因として上げられる。さらに、アリ・ファルカ・トゥーレが少年期より収集したトンブクトゥ諸民族の伝統曲に基づく音楽を、生涯を通じて演奏し、成功したことによるところが大きい。聞き取りを行った音楽家も、揃ってトゥーレの影響を口にした。
 一方で、マリにおける多言語歌唱は、トンブクトゥ以外には目立たない。地域色豊かな演奏は、トンブクトゥ以外の地域にも当然奨励されていたので、この政策がトンブクトゥ歌手だけに影響を与え、多言語歌唱の大きな原因になったとは考えにくい。また、トゥーレの成功が、果たしてそこまで大きな影響を及ぼすものか、との疑念も拭えない。
 トゥーレは、なぜトンブクトゥ諸民族の伝統曲に興味を持ち、熱心に収集したのであろうか。トゥーレ以前に、そのような音楽家は存在しなかったのだろうか。トゥーレは、特別に音楽的好奇心に満ちた、突然変異のような音楽家だったのだろうか。
 私は、ソンライ音楽家は、トゥーレの登場以前から、当たり前のように地域の諸民族の曲を、多言語で唄っていたのではないかと考える。
 ボクムによると、トゥーレと同世代かやや年長であるハーベル・マイガも、多言語で唄っていた。このことは、多言語歌唱がトゥーレの発明品でも専売特許でもなかったことを示す。
 ここで思い当たるのは、他民族とは異なるソンライ楽師の立場である。トゥアレグやマンデ系民族では、楽師といえばグリオである。グリオは、特定のパトロンを持ち、パトロンのために唄い語るのが本務である。従って、グリオがパトロン以外の人のために唄ったり、他民族の音楽を演奏したりすることはまずあり得ない。
 しかし、ソンライにおいては、グリオは語り部ではあるが、楽師としての性格は希薄である。ボクムの父は、グリオではなかったが、楽師として儀礼などで演奏した。トゥーレやボクムも年少の頃、楽師として儀礼などで演奏した。聞き取りによると、ソンライの人々がソンライ・グリオを楽師として儀礼などに招くことは、逆に稀である。
 このような状況の下で、ソンライ楽師は、儀礼や娯楽の場で、昔から民族の壁を越え、トンブクトゥ周辺諸民族の音楽を演奏し唄ってきたのではないだろうか。職能階層とは無関係である彼らは、他民族のグリオ楽師に比べて自由な演奏活動が可能であり、他民族の儀礼や娯楽の場に参入しやすい。演奏の機会を増やし、市場を拡大するため、他民族の伝統曲を熱心に習得し、結果的に多言語歌唱が当然のこととなったと考える。
 また、トンブクトゥの人々には、理解出来ない言語で唄われている歌を聴かない傾向があり、トンブクトゥの歌手はその傾向を察知している。より多くの民族のより多い聴衆を得るためには、必然的に、様々な民族の歌を多言語で唄うこととなり、トンブクトゥの楽師たちはそのような努力を続けてきた。トゥーレも、そのような楽師の一人であったかも知れない。そして、現在活躍中の音楽家たちも、そのようなソンライ楽師の系譜を継いでいるのではないだろうか。
 
7-1-2 土着志向
 トンブクトゥ・ポップには、その音楽的特徴と音楽家の活動の様子から、明確な土着志向がある。
 音楽的な土着志向として挙げられる特徴として、トンブクトゥの音楽家は、伝統楽器を使用し、伝統曲そのものや伝統に則った曲を積極的に演奏する。ギター演奏にも、伝統音楽の要素を盛り込んでいる。ソンライ音楽家に特徴的なトンブクトゥ諸民族の多言語による歌唱、他民族の伝統曲を積極的に採用する姿勢も、マリの他地域では見あたらない。
 一方で、コンピューターやシンセサイザーなど、もはやアフリカにおいても最先端とはいえない楽器や機材を演奏に使おうとする様子は伺えない。各官立楽団の活躍が華々しい頃に盛んに使われていた管楽器やラテン系打楽器も、現在では、トンブクトゥからは姿を消してしまった。
 ここには、流行に関わらず、地域に昔から伝わる音楽を演奏し続けようとする態度が伺える。ギターの頻繁な使用や、楽団へのベース、ドラムセットの導入も、地域の音楽を演奏するときに有用であるとの理由からであろう。ボクムは、伝統楽器が調絃の不安定さから合奏や長時間の演奏に不向きであること、ギターは伝統楽器の代用品であること、ベースギターは、多くの聴衆の前で演奏する機会が増えたため導入した、などと語っていた。トンブクトゥの音楽家は、新奇な外来音楽や楽器を、面白がってどんどん取り入れていくという姿勢は見せず、地域の音楽のよりよい演奏を補うものとして外来の楽器や機材を使っている、といえる。
 また、音楽家の活動そのものにも、強い土着傾向が見られる。すでに述べたアリ・ファルカ・トゥーレ、ハイラ・アルビィ、アフェル・ボクムの他、聞き取りを行った音楽家の中にも、トンブクトゥに拠点を置いて活動を続ける音楽家は多い*1。住民聞き取り調査で名前の挙がったビントゥ・ガルバやキア・モゥルー他の音楽家も、同様である。トゥーレやアルビィは、一度バマコへ拠点を移したが、再びトンブクトゥへ戻っている。
 マリ全土での成功を目指すなら、首都バマコへ、世界での成功を目指すなら欧米へ拠点を移すことが最善であることは明白である。しかし、彼らは、充分な市場があるとは思えないこの地に住み、地元の人々のために、地元の言語で唄う。また、トンブクトゥの人々は、そのような音楽家たちを、強く支持している。
 
7-1-3 「トンブクトゥっ子*2
 トンブクトゥに住むそれぞれの民族は、それぞれの民族としての帰属意識を持って暮らしているように見える。一方で、トンブクトゥ住民、またはトンブクトゥ出身者としての強烈な自負も感じられる*3
 長い歴史を持つ都市には、日本における「江戸っ子」「浪華っ子」「博多っ子」などのように、その都市の住民が持つ独特の気質が生まれる。トンブクトゥにも、「トンブクトゥっ子」とでも呼べるような、住民気質が生まれていると考える。
 トンブクトゥは、都市としての歴史が長く、ソンライ、トゥアレグなどの諸民族が、長い時間をかけて形成してきた。住民の中には、先祖代々この地に居住する者も少なくない。彼らは当然よそ者ではなく、また、懐かしい故郷を離れて職を求めてやってきた出稼ぎ者でもない*4。彼らの帰るべき故郷はトンブクトゥである。
 トンブクトゥの人々は、言語さえ理解できれば、多民族の音楽を聴く傾向にある。また、ソンライ歌手に顕著な傾向として、他民族の言葉で他民族の伝統曲をも厭わず唄う。儀礼の際に、他民族の楽師や司会者を招く。このような、同じトンブクトゥに住む、民族の異なる隣人を受け入れ、ともにあることを尊ぶことが、トンブクトゥっ子としての作法であり、気質であると考える。
 また、マニュエル[1992]も指摘するように、音楽はしばしば人の帰属意識に訴えかける。トンブクトゥっ子は、トンブクトゥの音楽家の演奏を聴くことによって、その帰属意識を確認しているのではなかろうか。上述したトンブクトゥ音楽家が示す土着志向にも、このようなトンブクトゥっ子としての帰属意識が関係していると思われる。
 
7-1-4 トンブクトゥ・ポップは、ポピュラー音楽か?
 本論文では、ポピュラー音楽の定義として、次の要素のうち、いくつかを併せ持つ音楽であるとした。

 1. 生産者と消費者が分かれている音楽
 2. マスメディアと結びついた音楽
 3. 都市に起源を持つ音楽
 4. 伝統的な生活習慣である特定の儀式やライフサイクルの行事と関係のない音楽
 5. 日常生活において、娯楽として消費される音楽
 6.同じ曲が時代を越えて繰り返し演奏されずに、レパートリーの回転が速い音楽
 7. メディアによって個人崇拝を煽られた「スター」が演じる音楽
 
 私は、考察を進める中で、トンブクトゥ・ポップには上記のような要素と随分と当てはまらない部分が多いな、という印象を強くしていった。
 先ず、トンブクトゥ・ポップは、必ずしもマスメディアに依存していない、ということである。確かに、音楽家たちはCDやカセットを販売し、一部の音楽家はテレビやラジオで放送されたり出演したりしている。しかし一方で、トンブクトゥでは人気が高くても、バマコでは全く知られていない音楽家も少なからず存在する。
 音楽が聴取される場面は、生演奏である場合が多い。「スター」は存在しても、その人が「スター」となったのは、マスメディアが煽った結果ではなく、地元で生演奏を聴いた人々の評判を呼んだ結果なのだ。
 また、生演奏の機会は、儀礼の場であることもしばしばで、トンブクトゥ・ポップは儀礼などとは無関係であるとはいえない。そして、そのような儀礼の場は、日常ではないので、日常の娯楽としての音楽とはいいにくい。そう考えると、果たしてトンブクトゥでは、昔ながらの楽師とポピュラー音楽家との間に、違いはないように思われてくる。もしあったとしても、その境界は極めて曖昧なものであろう。
 また、トンブクトゥ・ポップは、少なくてもビジネスとして成功しているとは思えない。トンブクトゥに留まる音楽家の多くは、音楽だけで「喰っている」とは思えないからだ。彼らからは、音楽で大もうけしてやろうとか、一山当ててやろうとか、そのような野心が感じられない。多くの音楽家が他に職業を持ち*5、たまの演奏の機会に自慢ののどやギターを披露する。そのような音楽家の姿が、トンブクトゥでは普通なのだろう。ここには、欧米型の巨額のカネが動くショー・ビジネスや、スーパー・スターになってビッグ・マネーを得ようと目論む野心に満ちた音楽家たちなどとはほど遠い世界がある。かといって、トンブクトゥの音楽を「ポピュラー音楽ではない」と言い切ることができるだろうか。
 このように、トンブクトゥ・ポップは、従来のようなポピュラー音楽とはいいにくい要素が多数ある。民俗音楽や伝統音楽がそのまま自己展開し発展したような、あまりに土着的な音楽。ここで思い起こされるのは、トンブクトゥが持つ歴史である。古来より交易都市、学問都市、ある時は征服支配の総督府の所在地として繁栄し、様々な民族が行き来し住み着き、交流していたこの都市は、欧米の影響を受けずに自己展開してきた。音楽も、その歴史をなぞってきたのではないか。
 富裕者の私的なパーティーに、あるいは各種の儀礼に招かれて大勢の招待客の前で演奏する音楽家。その演奏を、会場に紛れ込んで、あるいは遠巻きにして楽しむ人々。そこでの音楽家の姿は、近世ヨーロッパの宮廷楽師と何ら変わらない。ショパンやモーツアルトは、ポピュラー音楽家だったのだろうか?ハイラ・アルビィやアフェル・ボクムといったトンブクトゥの音楽家の演奏は、ポピュラー音楽にしか聴こえないのだが・・・。
 トンブクトゥには、マスメディアとはほぼ無関係な、それでいてポピュラー音楽としか呼べないような音楽がある。この地では、きっと遥か昔から、このような音楽が存在し、人々は変わらずにこのように音楽を楽しんできたのだろう。そして、音楽家たちも、地元の人々が喜ぶような音楽を、独自で工夫しながら演奏し続けてきたのだろう。
 
 
 
7-2 今後の課題
 
 上で述べた考察には、未だ推測の域を出ない部分がある。これを確かなものとするために、以下のような課題を挙げる。
 
7-2-1 アリ・ファルカ・トゥーレ以前の多言語歌唱
 現在のソンライを中心としたトンブクトゥ音楽家に見られる多言語歌唱傾向は、彼らの証言からもアリ・ファルカ・トゥーレの影響が大きいことは間違いがないようだ。しかし、多言語歌唱を受け入れる下地がなければ、これほど一般的な傾向とは成り得ないはずだ。
 そこで、トゥーレ以前のソンライ楽師、または現在儀礼などで演奏するソンライ楽師の活動を追い、または調査し、その実態を明らかにする必要がある。また、彼らのレパートリーやその歌唱言語を知る必要がある。
 考察(1)で述べたように、今の時点で、私はトゥーレ以前の楽師たちはすでに多言語歌唱を行っていたと考えている。もし、トゥーレ以前にそのような傾向がなかったとしたら、トゥーレの影響力は、計り知れないものであったと言わざるを得ない。
 
7-2-2 ソンライ音楽家の現金稼得活動の把握
 これまでの調査では、トンブクトゥ音楽家の生業の実態について、あまり知ることはできなかった。彼らが、どのような頻度で演奏の機会を得、それによってどの程度の収入を得ているのかなどは、不明のままである。市場規模が小さいトンブクトゥに、あれだけ多くの音楽家が存在していることは、供給過多のようにも見える。日常的に演奏し、収入が得られる場も無く、音楽家としての活動の実態は、不明である。聞き取りによると、ポピュラー音楽家の多くは、他に副業(本業)を持っている。
 このような、音楽家の現金稼得活動を把握することで、彼らの土着志向の動機を探ることができると考える。音楽家がトンブクトゥに留まって活動することの合理的な理由を知る手がかりとなろう。
 また、トンブクトゥ音楽家の演奏機会となっている富裕者の私的なパーティーを数多く観察する必要がある。このようなパーティーを開催する習慣が、トンブクトゥ独自のものなのか、あるいは他地域にも見られるものなのかを確かめたい。そして、もしトンブクトゥ独自の習慣であるとすると、その源泉はどこにあるのか。この点を知ることで、トンブクトゥ・ポップの独自性をさらに明確にできることだろう。
 
7-2-3 帰属意識の実態
 考察(3)で述べた、「トンブクトゥっ子」とも呼ぶべき住民気質は、確証と呼べるものを得ていない。しかし、長い歴史を誇り、かつては輝かしい栄光に彩られ、現在は色あせて砂漠に埋もれようとしているこの地に生まれ生きる人々が、自分たちの故郷に特別な思いを抱くことは、極めて自然なことだ。
 今や国家を牛耳る異民族・マンデ系民族に対する彼らの思い、そのマンデ系民族の街で、共和国の首都として急成長するバマコに対する彼らの思いは、どのようなものであろうか。
 きっと、トンブクトゥの人々は、民族を越えた共通の思いを持ち、共有していると思えてならない。彼らは、「トンブクトゥっ子」を自負し、「トンブクトゥっ子」として考えかつ振る舞い、トンブクトゥへの帰属意識を保有していると、思えてならない。
 その確証をポピュラー音楽の視点から得るためには、トンブクトゥの人々が聴く歌の歌詞を、さらに調査することが有効である。私は、本研究で、アリ・ファルカ・トゥーレとアフェル・ボクムの歌詞を調査分析したが、そこからはトンブクトゥの人々の帰属意識に訴えかけるような内容のものは、少なかった。そして、トンブクトゥの人々に圧倒的な人気を誇るハイラ・アルビィや、トンブクトゥでは強く支持されているものの、バマコではまったく知られていないビントゥ・ガルバやキア・モゥルーらの歌詞は、調査できていない。彼女らは、一体何を唄って、そこまでトンブクトゥの人々を惹き付けているのか。トンブクトゥの人々が、歌詞に最大の関心はないものの、言語か理解できない言語が理解できない歌はあまり聴かないという傾向を持っていることは明らかとなった。さらなる歌詞の調査分析が、「トンブクトゥっ子」という人々が存在するのかどうかを知る手がかりになると考える。
 
7-2-4 トンブクトゥ広域の調査
 これまでの臨地調査は、トンブクトゥ市のみに留まり、アリ・ファルカ・トゥーレやアフェル・ボクムの出身地であるニアフンケでの調査が行えていない。この地は、トンブクトゥ市とはこのなる歴史*6を持ち、トンブクトゥ市では目立たなかったフルベが近郊に多く住むという。フルベは、トンブクトゥ州の主要民族のひとつであるので、トンブクトゥ・ポップの全容を明らかにするためにはニアフンケの調査は欠かせない。
 また、その他の地域の調査を行うことは、この研究の精度を増すことであろう。
 
7-2-5 比較研究の可能性
@多言語歌唱について
 私はここまで、多言語歌唱の傾向が、トンブクトゥ歌手固有の特徴であるとして議論してきた。事実、マリ国内でトンブクトゥ以外の地域で多言語歌手がいるとは確認できなかったし、周辺諸国においてもそのような例は見あたらない。
 しかし、トンブクトゥと同様の多言語状況にある地域は、アフリカに限らず、世界各地に見られる。それらの地域に、多言語歌唱によるポピュラー音楽が存在するのだろうか。
 もし、他に多言語歌唱によるポピュラー音楽が存在するとすれば、その地とトンブクトゥとの類似点を検証し、実例を積み重ねることで多言語歌唱を生む法則性を見いだせるかも知れない。また、他に存在しないとすれば、その地とトンブクトゥとの相違点を検証することで、トンブクトゥの特性をより際だったものとして理解することができるであろう。
 
A国内の共通語によらない歌唱について
 有力な共通語があり、かつ充分に流通している国において、特定の地域に別言語で唄う、他地域とは別のポピュラー音楽が存在するという例は、実は少なくない。日本でも、沖縄や奄美大島の音楽がある。
 沖縄には、独自の芸能と島唄の歴史があり*7、現在でも沖縄内外で高い人気を得ている。しかし、トンブクトゥに比べて市場規模は遙かに大きい*8。また、県内に録音スタジオ、CD制作会社などの音源制作販売の体制は整っており、日本本土に依存しなくても済む。さらに、音楽家の中には専業の者*9も少なくない。また近年は、日本本土の沖縄音楽愛好者向きの音楽が盛んに作られている。沖縄方言(ウチナーグチ)の歌唱や沖縄音階によるメロディは減少し、記号化した三線や島太鼓の音を取り除けば、日本のポピュラー音楽と変わりないものとなりつつある。
 一方、奄美地方は、トンブクトゥにより似た状況にある。市場規模は島内人口約7万人と小さく、常時シマ唄*10を聴かせるようなレストランも存在しない*11。島に名手と呼ばれる歌手(唄者(うたしや))は多く存在し、儀礼やお祭り観光イベントなどに出演する一方、CDを販売して東京や大阪などで演奏会を開く。また、唄者のほとんどが本業を持っている。音楽そのものは、現在独自のポピュラー音楽が育ちつつあるといえる*12。新曲が作られることは少なく、演奏も未だに三味線と太鼓が中心である。しかし、それらの歌は奄美方言で歌い継がれ、毅然たる独自性を保っている。また、奄美に留まり、新しい音楽を作ろうとする音楽家も多い*13。音楽制作販売体制は、トンブクトゥとは異なって整っている。島内に録音スタジオがあり、奄美シマ唄を専門とする制作販売会社は島内外に存在する*14
 他国に例を挙げると、米国ルイジアナの仏系移民のよるケイジャン*15、同地域の仏系移民の奴隷であった黒人によるザディコ*16、テキサスのメキシコ系移民によるテックス・メックス*17、スペインのバスク地方におけるボタン・アコーディオンと小型タンバリンによる音楽*18などが挙げられる。
 沖縄や奄美を含め、これらの地域に特徴的なのは、それぞれの国において、多数派・主流派とは別の歴史を歩んできた少数民族が住んでいるということだ。マリにおけるトンブクトゥも、同様のことが言える。トンブクトゥの歴史や民族構成は、先にも述べたが、音楽は人々の帰属意識に強く働きかける。上述した各地の音楽は、いずれも住民の帰属意識と強く関わっている。トンブクトゥの音楽も、住民の帰属意識に大きな関係があると考えるのが自然であろう。
 
7-2-6 楽曲の解析
 本論文では、トンブクトゥ・ポップのギター音階などの解析は行ったが、楽曲そのものの解析はほとんど行うことができなかった。楽曲の採譜を行い、メロディやリズム、楽曲構成などを解析し、マリ国内外の音楽と比較することで、トンブクトゥ・ポップそのものの特徴が明らかとなり、そのルーツを探る手がかりとなるはずだ。
 現在、私の印象としては、トンブクトゥ・ポップの楽曲は、スーダンやエチオピアの音楽と似ている、と感じている。2009年5月、横浜でアフェル・ボクムの演奏を聴いて、大いに感激していたスーダン人の男性も、私のこの意見には同意した。しかし、それを確かなものとする論拠は、得られていない。
 また、現在、ティナリウェンを代表とするサハラ周辺の音楽は、マスメディアによって「砂漠のブルース*19」として売り込まれている。トゥアレグのテハラダントをギターに置き換えて、多少ブルージーに演奏される素朴な音楽が、拡大解釈されてトゥーレやボクムもまでもが砂漠のブルースとして語られていることには、大きな違和感を覚える。
 トゥーレは、自らブルースの影響を認めているが、彼の音楽を聴くとブルース的要素は意外と希薄で、英国の伝承曲のような印象の楽曲が多い。ボクムに至っては、ブルースらしさはまるでなく、粘っこい多彩なリズムが印象的である。アルビィは、ギターを中心とした複雑なバンド・アンサンブルで、ボクム同様のリズムをよりファンキーに叩き出す。
 私は、ボクムやハイラ・アルビィ、チャーリー・アルビィ、ヴィユー・ファルカ・トゥーレなどが演奏する音楽を指す呼称として、「ソンライ・ファンク」という言葉を用意している。粘っこくグルーヴする複雑なリズム、繰り返されるコール&レスポンス、心情迸る歌唱、これは、ジェームズ・ブラウン以降のファンクに他ならない。このような感触は、近隣のソンライ音楽家、例えば隣州ガオのババ・サラや隣国ニジェールのママール・カーシーにも共通している。これらの音楽家の演奏の呼称として、「ソンライ・ファンク」は「砂漠のブルース」よりも、遥かに実態に近く相応しいと確信している。
 
 
 
7-3 おわりに
 
 2005年に参加した「砂漠の音楽祭」で、最も印象深かったのは、音楽祭一日目の深夜、ハイラ・アルビィのステージでの出来事であった。
 私は、ステージ中央に近い場所を確保してアルビィ演奏を見ていたのだか、どんどん聴衆が押し寄せてきて、端へ端へ、後ろへ後ろへ押し出されていったのだ。体格のいい地元の人々−−−ソンライの人もトゥアレグの人も−−−が、隙間ともいえないような隙間に大きな体を押し込んでくる。あんなに「白い客人」に親切だった彼らが、私たちを邪険に押し払い、どんどんステージに近づいていく。そして、アルビィを喰い入るように見つめ、歌を口ずさむ。時間が経つにつれ、やがてそれは熱狂へと変わっていった。気が付けば、私はステージから遥か離れた場所で、立ち上がって体をぶつけ合うように踊る人々の背中越しに、誇らしげに唄うアルビィを覗き見ていた。後でアルビィのアルバムを聴くと、地元聴衆を熱狂に導いたのは、"Tombouctou"*20 という歌だった。
 そして、これが、この音楽祭で最も盛り上がった瞬間であった。私は、その光景を不思議な、理解できないものとして見ていた。ハイラ・アルビィとは誰で、この熱狂する人々は何者で、トンブクトゥとは何なのか・・・。
 そして今、その謎が少し解けたような気がしている。その音楽祭の目玉だったはずのアリ・ファルカ・トゥーレやサリフ・ケイタが来なくても、トンブクトゥの人々が憤慨することなく穏やかでいた理由も、今では理解できる。アリ・ファルカは具合が悪いから、無理しないで欲しいよね。サリフなんか、別にエエよね。ハイラのご機嫌な演奏が聴けたら、OKやよね!できたら、ビントゥ・ガルバやチャーリー・アルビィも聴きたかったなぁ。だって、ここは、トンブクトゥなんだから。
 
 
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 この場をお借りして、次の皆様に、感謝の意を表したい。
 臨地調査の際に、多忙極める中、いろいろな話をして下さり、宿まで提供して下さった上、私の入院の手続などをして下さるなど、大変お世話になったアフェル・ボクムさんに、心から感謝を申し上げたい。
 アフェルさんに同行してきた言葉も分からない「よそ者」の私を暖かく受け入れ、寝食をともにして下さったアルキバルのメンバーのハマ・サンカレさん、ヨロ・シセさん、ティムジ・ボクムさん、アフェルさんの弟で、ギターを教えてくれたジャジェ・ボクムさん、毎度毎度の食事を作って下さったアリさんにも、感謝を述べる。
 その他のアルキバルのメンバーで、制作中のアルバム音源を聴かせてくれたり、スタジオを見せて下さったりしてバルゥ・ジャロさん、横浜への来日の際に、盛んに話して下さったママドゥ・ケリーさんにも、お礼申し上げたい。
 また、バマコで私を楽しませて下さったアフェルさんの友人の皆さん、特に、私の入院の際に、車で病院まで送って下さったマンビィさんには、厚く御礼申し上げたい。その他、バマコで出会った様々な皆さんに、感謝したい。
 トンブクトゥでは、快くインタビューに答えて下さり、歌まで唄って下さったハイラ・アルビィさん、兄弟のように接してくれたコッソウ・アルビィさんとババ・マイガさん、単車であちこち連れて行ってくれたマハマンさん、その他、大勢の協力者の皆さんに感謝する。
 そして、バマコの宿の管理人で、アフェルさんとの接触からトンブクトゥへの移動の手配、データの収集から食事に至るまで、あらゆる面で私を支えてくれたもう一人のボクムさんと、毎日のようにお茶をご馳走してくれたスタッフのセイドゥさんにも、厚くお礼を申し上げたい。
 
 日本では、主査としてご指導下さった梶茂樹先生に、厚くお礼を申し上げたい。他の新入生より遥かに年長であった私にも、変わりなく暖かく接して下さったおかげで、随分と頼もしく、且つ救われる思いがした。
 入学前の研究科見学会からお世話頂き、入学後も親しく話して下さった木村大治先生、柔軟な助言で、凝り固まった私の脳に新鮮な刺激を幾度となく与えて下さった山越言先生にも、お礼申し上げる。また、様々な場面で、厳しく、かつ優しくご指導下さったアフリカ地域研究専攻の先生方、アジア地域研究専攻の先生方にも、お礼申し上げる。大勢の先生方が、度々私を励まして下さった。
 アジア・アフリカ地域研究科の研究員、大学院生の先輩方、同期生の皆様にも、感謝したい。年長な上に無学な私に、本当に親しく接していただき、また遠慮なく議論し意見して下さり、誠に有り難く、心強かった。
 研究科の外で、新しく知り合った皆様にも感謝申し上げる。赤阪賢先生は、不躾な度々の訪問を暖かく迎えて下さり、親切に助言いただいた。鈴木裕之先生は、学会やオフ・ステージの忙しい時間でのいろいろな対話の中で、示唆を与えて下さった。その鮮烈且つ暖かい写真作品で、私をアフリカに誘った張本人の一人である板垣真理子さんは、まるで古くからの友人のように接して下さった。また、板垣さんは、日野舜也先生をはじめ、多くの方を私に紹介して下さった。そのうちのお一人、森田純一さんは、ポピュラー音楽や奄美音楽についての助言を丁寧にして下さった。その他、海老原政彦さん、各務美紀さんはじめとする多くの方々に厚くお礼申し上げたい。
 また、私の行動に理解を示し、多くの励ましを下さった古くからの友人の皆様にも、お礼を申し上げる。多大な勇気を頂いた。
 そして、最後に、私の家族、親族に感謝する。2年もの間、全くの無収入になるにも関わらず、自由にさせていただいた上、様々な苦労と心配を掛けてしまった。こんな身勝手な私を、嫌な顔ひとつせず、見守ってくれた。有り難うございました。
 そして、最後までこの論文を読んで下さった皆様。有り難うございました。まだまだ未整理な部分が多く、読みづらい論文であることは、書いた本人が充分に承知してます。satoh7star@gmail.com まで、ご意見いただけたら幸いです。 
 
 私は、トンブクトゥに、そして京都に来て、アフリカについて、音楽について、人々の営みについて、そして自分自身についても、広い視野と多くの新たな視点を得た。そして、語り尽くせない経験をした。私の魂の一部は、これからもニジェール川と鴨川の間にある。
 
2010年2月26日
京都市左京区 鴨川荒神橋東詰付近にて
 

*1 ヴィユー・ファルカ・トゥーレや、アルキバルのトンブクトゥ出身者の3人など。勿論、チャーリー・アルビィのように、バマコへ拠点を移す音楽家もいる。
*2 マイナー[1988]によると、トンブクトゥ市に住むソンライの自称は「コイラボロ(koyraboro)」で、「町の人」という意味である。
*3 例えば、第5章で述べた結婚披露宴や、別の機会にバマコで観察したニアフンケ出身者の小さな集会などからの印象から。
*4 住民によると、旧市街周辺の開発や、観光地としての人的需要も相まって、近年は人口も増加し、他地域からの移住者も多いという。
*5 ボクムは、かつては農業指導公務員、現在は農場経営。トゥーレは、農業、ホテル経営、晩年は市長。アルキバルの音楽家は、クリーニング店、スタジオ経営、農業、など。
*6 ボクムによると、ニアフンケには、長い歴史におけるトンブクトゥでの度重なる抗争から逃れた人々の子孫が住むという。
*7 知名[2005]に詳しい。島唄とは、民謡や新作歌謡曲も含む沖縄ポピュラー音楽の総称。
*8 人口は県内約136万人、国内外にも多数の移住者がいる。沖縄音楽愛好者も多数存在し、市場規模は県内人口を遙かに上回る。
*9 知名定男[1945~]、照屋林賢[1949~]、BEGINなど。
*10 奄美方言で、「シマ」とは「島」とともに「集落」のことも指す。集落ごとに歌に特徴があることから、「シマ唄」と表記することが多い。
*11 唄者の本業、シマ唄の常設演奏場所などの記述は、佐藤の2002年の奄美訪問の際の調査・観察(http://tomokin.at.infoseek.co.jp/mai/mai_019.html)と、森田純一の助言などによる。森田は、奄美シマ唄の音楽プロデューサー。
*12 RIKKI(中野律紀)[1975~]は、奄美シマ唄を大胆なアレンジで聴かせる。多作ではないが、奄美方言によるオリジナル曲を生み出している。元ちとせ[1979~]、里アンナ[1979~]、中孝介[1980~]らは、奄美特有の節回しで「Jポップ」を唄う。
*13 例えば、中村瑞紀[1979~]、吉原まりか[1983?~]など。
*14 奄美市にはセントラル楽器、本土には全国配給可能なジャバラ・レーベルなど。
*15 cajun。仏語、またはクレオール化した仏語で唄い、アコーディオンとバイオリンが活躍する。Michael Doucet、Jo-El Sonnierらが知られる。
*16 zydeco。ケイジャンよりR&B色が濃い。アコーディオンが主役で、仏語、クレオール化した仏語で唄う。Buckwheat Zydeco、Clifton Chenierらが有名。
*17  tex-mex。アコーディオンで、西語で唄う。Steve Jordan、Flaco Jimmenez らが知られる。
*18 バスク音楽、トリキ・ポップ(triki-pop)などと呼ぶが、呼称は不定。ボタン・アコーディオンを、当地ではトリキティシャ(trikititxa)と呼ぶ。バスク語で唄う。Kepa Junkera、Alaitz eta Maider らが有名。
*19 例えば、中村とうよう他[2004]
*20 "YA RASSOUL" track02 に収録。

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