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【page05 奄美旅を終えて】
奄美音楽を聴くとき、やはり沖縄本島周辺の音楽と比べてしまいます。
で、ワタシの感じた両者の一番の違いは、
「村の音楽」か、「盛り場の音楽」か、ということ。
沖縄の那覇やコザには、島唄を聴かせる店がウジャウジャあるのに、
奄美にはそんな店はほとんどない。
沖縄の音楽には、酒場で客とワイワイやりながら(または野次られながら)、
鍛えられてきた跡が聴き取れるけど、奄美の音楽には、そんな様子がない。
いいように言えば、プリミティヴで、すれていない音楽。
悪く言えば、あまり現代的でない、内向きな音楽。
「都市文化」の匂いがないのです(そこが魅力のひとつか?)。
CDやテープに録音された音楽を聴いても、演奏会を観ても、
その辺の違いがはっきり出てます。
沖縄のミュージシャンは、ステージでもサーヴィス精神旺盛やし、
新曲を作ったり、新しい演奏スタイルを試したりと、
「目立ってナンボ」といった感じです。
喜納昌吉も、照屋林賢も、決して天才的な改革者ではなく、
沖縄音楽の文脈の中から必然的に現れたのです。
それに対して、奄美のミュージシャンはなにやらストイックな佇まいで、
昔からの唄を昔と同じように唄う、てな感じ。
・・・勿論、これまでも新しい試みもあったようですが、
あまり定着しているようには見えません。
普段、人前で演奏する機会も、圧倒的に少ないのでしょう。
フル・タイムのミュージシャンも、基本的には居ないようですし。
これは、沖縄と奄美との風景の違いと同じですね。
沖縄にも、奄美と同じような海や森の風景がありますが、
やはり那覇やコザといった、奄美にはない都会も印象的です。
奄美では、ただただ大自然に圧倒されるのみでした。
当然、宮古諸島や八重山諸島の音楽もあるわけですが、
実際には沖縄音楽と一体化しています。
かといって、「取り込まれている」という印象は、あまりありません。
一方で奄美音楽は、宮古や八重山に比べて、沖縄本島との敷居が高いように思えます。
同じ琉球文化圏にありながら、
古くは薩摩による分断に始まり、鹿児島県と沖縄県に分かれ、
戦後、米国による支配でも奄美と沖縄には違いがありました。
また、ミュージシャン同士でも、何かしらの壁があるのでしょうか・・・?
それだけに、最近の新しい世代の唄者たちの活動が、気になるのです。
しなやかに、こだわらず、何でもやってまえ! と。
奄美音楽のキャリアを引っ提げてポップスをやる人、
しま唄にとどまって新しい試みをやる人、
自作で「奄美のうた」を作ろうとする人・・・。
「都会的」になることを望んでいる訳ではありませんが、
「現代的」であることは、重要だと思うのです。
沖縄音楽にはない、奄美音楽の魅力を、現代化することは可能です。
古いものをそのまま残そうとすると、朽ち果ててしまうだけですよね?
「奄美ポップ」の、夜明けは近い!!
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笠利町で見た日の出。太平洋を臨みます。 |
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